七寺(ななつでら)の観音様
七寺という呼称は、787年の平安時代前期に紀是広(きのこれひろ)によって七堂伽藍が建立されたところから来たものだそうだ。
その後荒廃していたのを平安後期に大中臣安長によって稲沢に移されて七堂伽藍が整備された。
桃山時代に清須へ、さらに江戸時代現在の場所に移された。
拝観のお願いをしていたので、インターホンを押すと、住職さんが出てきてくださり、玄関からさあどうぞと本堂にあんなしてくださいました。
そして、懇切丁寧にお寺の由来から名古屋大空襲のことなど話してくださいました。
本堂は近世に清須に移った時の建物で焼失前の写真には阿弥陀三尊と二天が立ち並び壮観であった。
焼失文化財の本が置かれていて焼失前の壮観な姿をしのばれます。
1945年名古屋大空襲に遭い、先代の住職さんともう1人お寺の方が必死の思いで脇侍を運び出されたそうです。
しかし本尊を運び出すことは叶わず、勢至菩薩像とその光背、観音菩薩像以外はすべて灰になってしまったそうです。
聞いていて残念でたまりませんでした。
観音様をライトで照らしてくださり、心ゆくまで拝観させていただきました。
造立当初のものである光背がまた素晴らしい。
仏様は本当に美仏です。惚れ惚れするぐらい美仏です。
光背を失った観音菩薩のほうが整ったお顔をされているように思いました。
ヒノキの寄木造りで漆箔仕上げの半丈六像で定朝様の典型というべき作風を示しているが張りのある面相、引き締まった体型で玉眼が嵌入されている。
玉眼の古い作例の一つ。
観音菩薩勢至菩薩のの並びも普通とは逆で向かって右に勢至像、左に観音像となっており、また、普通観音様が冠に化仏、勢至が水瓶を冠につけるが、七寺ではそれぞれ光背の上部に付けられてる。
あと半年この戦争が早く終わっていれば、仏像が焼かれることはなかったそうです。
あと半年というところで、灰になってしまった。
そのあとで、
重要文化財 唐櫃入紙本墨書一切経 平安後期もみせていただきました。
市の文化財担当の方がが一切経を神社に疎開させていたため焼失を免れた。
唐櫃6合は、今はお寺以外に東博、京博などに分散されて保管されている。
戦災に遭い痛々しい姿の鋳造の大日如来
私1人のために熱心に詳しく時間をかけて説明をしてくださった住職さん。本当にありがとうございました。
おかげで名古屋の旅が印象深い楽しいものとなりました。