スタッフブログ

陽明文庫展 開催中です。

2012年4月26日|カテゴリー「スタッフブログ

私は、陽明文庫が京都にあることすら知らなかったので、京博へ行く前に、公益財団法人 陽明文庫 文庫長 名和修氏の講演を拝聴することができたのが良かったです。

国宝8件、重要文化財60件の全てが展示される初めての試みということですが、それがすべて古書や典籍なので、予備知識がないと展示内容を理解することができなかったです。

名和修氏の講演はとても分かりやすく、沿革は、レジュメとして配ってもらい、当日は、文庫所蔵品の内容について映像から解説していただきました。

そのレジュメの沿革の概略を紹介すると、

近衛家は5摂家筆頭の家柄で、藤原不比等の直系で次の代の南・北・京・式と4家に分かれるが、その中で北家がその後も繁栄し、代々朝廷において重要な地位を占め、平安中期には藤原道長の全盛期を迎える。

その後、武士に政治の実権が移ると、家が分かれる。

平安京の近衛大路室町に邸宅があったので近衛殿の近衛家、九条通の九条家。

さらにその後鷹司、二条、一条と五摂家に分かれていきこの五家に限って摂政・関白の職が継承できることとなるが、近衛家は始祖が嫡流であったのでその筆頭に位置する。

近衛家では、以来連綿としてその家系絶える事なく今日に至っている。

しかしその大資料群も安穏として伝わったわけではなく、歴代のものを分散させることを堅く禁じ守り伝えることを家憲としてきた。

応仁の乱には、岩倉実相院に移し戦火を逃れてきた。

また、明治になって皇居が東京に移され公家も東京へ移住する中、最後まで残った近衛家も一族全て東京へ移住したが膨大な文書類は京都に残され各所に預けられた。

その後、、時の首相の近衛文麿が書庫を建て、各所に預けられていたものをものを解除し集結させ、陽明文庫を設立した。

かくして、千年近い年月、代々弛まぬ努力をして伝え継がれてきた資料群は、資料拡散を将来とも起こらぬことを約束された形で、二棟の書庫に納められて現在に至っている。

 

作品の説明を聞いていると、江戸時代の家熈(いえひろ)という人が、文書を掛け軸にして装丁したり、切ったりといろいろと好きなようにしています。

文庫長いわく「自分の家のものだから(^_^;)」と言われていましたが、いいのか悪いのか(^_^;)

平安時代の日記が写本でなく直筆で残っているのは、奇跡に近いことで、それが最高権力者藤原道長のものだとすると間違いなく、国宝の中の国宝です。

展示されているほとんどが陽明文庫のもので、金峯神社所蔵の道長が吉野に埋めた金銅藤原道長経筒など少しで陽明文庫の内容の充実ぶりがうかがわれます。

5月27日まで京都国立博物館で開催されているので、是非近衛家が守り伝えてきた貴重な名宝をこの機会に見に行かれてはいかがでしょうか。

 

アントニ・ガウディと出会う。

2012年4月26日|カテゴリー「スタッフブログ

アントニ・ガウディは1852年に生まれた。両親とも銅細工職人という家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地になったと考えられる。

バルセロナで建築を学び、1878年に建築士の資格を取得し、パリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のためのショーケースをデザインし、この作品を通じて、その後40年余りの間、パトロンとなる繊維会社を経営する富豪グエル氏に才能を認められる。

グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼した。

そのグエル公園は、町から山を上がって行きます。

当初、広場道路などが作られ60軒の分譲住宅が造られる予定だったが、買い手がつかず売れたのは、グエル氏と恩があってやむを得ず買わされたガウディの友達の2軒だったという。

ガウディ自身もその分譲住宅に住んでいたという。グエル氏の没後工事は中断し市の公園として寄付される。

自然と芸術に囲まれて暮らせる新しい住宅地を造ろうとした、当時からみれば進みすぎた価値観が売れなかった理由の一つだが、現実問題として、乗り物のなかった時代にこの山の手に上がっていく手段は歩く以外にないので、こんな辺鄙なところに家を建てても売れなかったというのが実際のところだろう。

最初訪れたときは、日曜日で、市の公園なので無料ということもあり、ものすごい人人人人人でした。

もう身動きできないぐらいの人で、ドラゴンとだけ記念撮影をするなんてできそうもない情景でした。

延泊をしたので、翌日バスに乗って山を上がって再び訪れましたが、町の中心からはかなり山の手になるので、ガウディの頃に歩いてこの家に帰るのはとても大変だと実感しました。

グエル公園の入り口に立つ門衛の小屋ですが、お菓子の小屋みたいですが、甘すぎた感じはありません。

翌日はあまり人もいなくてじっくりゆっくり楽しむことができ、写真も公園のタイルをひとつひとつ撮る事が出来ました。

日曜日にグエル公園は絶対駄目です。

これもガウディのデザインです。

パイナップルのようです。

地震がないので、石をこんな風に積み上げていても大丈夫です。

道で人が歩く道路とそれ以外と2本に分けられています。

半日でも一日でもいる事ができる素晴らしい空間です。

翌日の朝の静かなグエル公園です。

シンボルのドラゴンともツーショットで写真が撮る事ができました。

グエル公園パンフレット

町の中にあるカサ・ミラです。

高級マンションとして建設されたそうですが、依頼主は、カサ・バトリョ邸を見て依頼したが、出来上がってきたのが、「石切り場」あだ名されるぐらいでイメージが依頼主の婦人のものとかなり違っており、裁判になったそうです。

実際に両方を比べてみると、バトリョ邸をイメージしたのであれば、裁判するのが理解できます。

入場料を払うとエレベーターで屋上に行きます。

実際にマンションに人が住んでいるので、一階と屋上とその下あたりが見学できるのですが、バトリョ邸のように日本語の解説がないので、分かりづらいです。(日本語がないなんて不親切)

美しいバトリョ邸です。

ここは日本語の解説イヤホンがあり、じっくりとゆっくり解説してもらって心ゆくまで見せてもらうことができました。

もし出来るものならこの家に住みたいです。

ほんとに細部まで心を砕いてデザインされたガウディ建築がここにあります。

吹き抜けのタイルも下と上では大きさが違っています。

居間の天井

ガウディデザインの椅子

ガウディは、熱心なカトリック教徒だった。1914年以降宗教関連以外の仕事を断り、サグラダ・ファミリアの建設に没頭するようになる。

1918年パトロンのグエル氏がなくなり、サグラダファミリアの建築も資金難から遅々として進まず、この頃の不幸が彼を変えたと言われる。

取材や写真を嫌うようになり、サグラダ・ファミリアに住み込み集中していく。

1926年ミサに向かう途中に路面電車に轢かれる。身なりに気を使わず浮浪者と間違われられ、手当てが遅れてなくなる。

終生独身であった。

ガウディは、「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」と、ガウディは自然の中に最高の形があると信じていた。

サグラダ・ファミリアの生前に描かれた設計図はスペイン内戦で焼失している。

現在焼失を免れた数少ない資料を手がかりに、現在も工事は続けらている。

完成予想図模型

ライトアップされたサグラダ・ファミリア

ガウディ設計の職人たちの小屋。

屋根の曲線が美しい。

ガウディを堪能することができた2日間でした。

サグラダ・ファミリア

2012年4月25日|カテゴリー「スタッフブログ

遠望 向いの公園から眺める。

地元では「とうもろこし」と言われている建物。

この日は日曜日なので、工事はお休みです。

日本人の外尾悦郎さんが彫刻した所。

日本では珈琲のCMで「違いのわかる男」と宣伝されていますが、スペインでは「違いがわからない男」と言われているそうです。(私にはその違いはわかりませんが)

この建築が完了した時点で、お仕事の更新はされていないそうです。

特に子どもの彫刻が子どもらしさがないと地元では言われているらしい。また、仕事は、1体いくらで引き受けている仕事らしいです。

でも、このサグラダファミリアの表を飾る生誕の門を、日本人の彫刻家の作品があることは素晴らしいと思います。

中のステンドグラスも現在製作中で、最後にはすべての窓にステンドグラスがはめ込まれ光の殿堂になるらしい。

光が入ると本当に美しい。

あと外にはガウディが作った、職人達の小屋や、ガウディ自身が住んでいた小屋も残っていてそれも美しい。

この日も、観光客でいっぱいでした。

これは、2日目に夜撮った写真なので、暗くてゴメンナサイ。