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京の冬の旅~その4 相国寺 大光明寺

2012年1月26日|カテゴリー「スタッフブログ

1339年、御伏見天皇の皇后・広義門院が、天皇の菩提を弔うために、伏見離宮内に創建した寺が始まりで、江戸初期に現在地に移された。

広義門院の禅の師であった夢窓疎石を開山とし、広義門院の法号をとって「大光明寺」という寺名がつけられた。

伏見宮家の菩提寺であり、1615年に徳川家康によって相国寺塔頭として再興された。

明治36年、塔頭の心華院と天明の大火で焼失していた大光明寺と室町幕府九代将軍・足利義尚(よしひさ)の菩提寺であった常徳院の3つが合併された。

京都に甚大な被害をもたらした天明の大火の時は、応仁の乱よりも大きな被害をもたらし、町の8割が焼けたという。

相国寺も法堂以外は全部焼けたという。

大光明寺の創建当初の本尊が普賢菩薩像だったので、今も創建当初のものではないが普賢菩薩像が本尊として祀られている。

お寺の外の生垣です。何の変哲もない生垣ですが、斜めから見ると、

模様が浮き出てきます。

今回の京の冬の旅ですが、京都には中国人の方がすごく多かったというか、道行く人のほとんどが中国人ではないかと思うぐらい街中に中国語が溢れていました。

旧正月特需です。

 

京の冬の旅~その3 長楽寺

2012年1月26日|カテゴリー「スタッフブログ

平安時代の創建当初は天台宗の別院でしたが、室町時代初期当時の一代の名僧国阿上人に譲られ時宗に改まり、明治39年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当時に合併され、今に至る。

また、当時はもともと円山公園の大部分を含む広大な寺域を持った有名寺でありましたが、大谷廟建設の際幕命により境内地を割かれ、明治初年境内の大半が丸山公園に編入され今に至る。

こんな処にお寺があるなんて、全然知らなかったのですが、それはそれは、なかなかの苦難の歴史ですね。

収蔵庫

この中に一遍上人像以下重文の遊行上人像がずらっと並んでいるのには壮観で驚きました。

ここは学生ガイドさんが説明をしてくれているのですが、お聞きすると、金光寺のものが合併の際、こちらに移ってきたそうです。

一遍上人像 

慶派大仏師康秀作で、1301年時宗総本山金光寺を創建の折、その敷地を寄進した七条仏所の当主運慶の三男、第10代康弁以後21代まで金光寺に住し、一遍の信奉者として製作に精進したという大仏師たちに依って遺された時宗初期の歴代上人像7体は、慶派の作風を伝える貴重な像ばかりです。

収蔵庫は通常でも拝観可能だそうですが、普段はどこかの展示会に出張されているかも知れないので、遊行上人像がすべて揃って並んでいるとはいえないそうです。

京都は、山すそのお寺にもこれだけ密度のあるお寺があるのですから、私が知らないだけのことですが、本当に奥深いです。

 

京の冬の旅~その2 長講堂

2012年1月26日|カテゴリー「スタッフブログ

本尊重文・阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩像

後白河法皇が礼拝していたとされる阿弥陀三尊像は、定朝の流れを汲む仏師の最高位の法印の地位にあった院尊が造ったとされる。

現在、院尊が造ったわかる仏像は一体もない。

もともとは、1183年、後白河法皇の仙洞御所「六条殿」内の持仏堂として建立された。

深く仏教に帰依し、熊野詣も30回を超えたといわれる法皇が、長講堂創建に合わせて製作を指示し、念持仏として丈六の阿弥陀仏ならびに観音勢至像を作ったのが、現在の本尊である。

寄木造り、玉眼を嵌入した漆箔仕上げ。豊満な姿態で穏和な作風を示す。

観音勢至菩薩像は珍しい、外側の足を踏み下げる形相である。

藤原末鎌倉初期の作と思われる。

 

長講堂は阪神淡路大震災で被害を受けて、それ以後新しく立て直されているので、綺麗である。

御影殿に江戸時代の肖像彫刻の代表作で重文指定を受けている後白河法皇像が祀られていて、普段は、毎年4月13日の法皇忌ほ法要中に開扉されるというが、果たして私たちが目に出来ることはないだろうと思うので、この機会はまたとない貴重な機会だと思う。

間近でゆっくりと拝観できました。

こちらもガイドさんが本堂や御影殿で説明をしてくれたのでよくわかりました。

本尊は間近では拝観することは出来ませんが、大きいのでよく見ることはできます。