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源頼朝が流された蛭が小島とはこんなところ

2010年12月26日|カテゴリー「スタッフブログ

立て札と碑が立っているだけで、あたりは公園になっていて他には、何もありません。

教科書でおなじみの「蛭が小島」って場所もここらしいとしかわからないそうで、本当に何も残っていません。

14歳でこの地に流された頼朝は、34歳で旗揚げし、やがて鎌倉幕府創設を成し遂げるが、配流20年における住居跡等の細部はわからないそうだ。

しかし「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、旗揚げのころは、妻政子の父北条時政の館に起居し館内で挙兵準備を整えたとある。このことから考えると、頼朝は北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの17年間をこの蛭が小島で過ごしたようだ。

往時は、近在には古河・和田嶋・土手和田などの地名が現存することから、大小の田島(中洲)が点在し、その一つが、蛭が小島だったようです。

北条時政の弟、北条義時の墓です。

 

 

重要文化財 伊豆韮山の江川邸

2010年12月25日|カテゴリー「スタッフブログ

願成就院で見学に来ていた初老の男の方が、これからどこに行かれますか?と私たちに声を掛けてくださり、他の見学者のご夫婦と私たち親子と4人を車で江川邸に

連れて行ってくださいました。江川邸はとても有名だそうですが、私は、初めて耳にしました。

江川家は、江戸時代には、伊豆、駿河、相模、武蔵、甲斐という広大な幕府直轄地を統治する世襲代官だったそうで、今も当主が東京にご健在で養子を迎えずに代々直系が江戸時代から脈々と続いているお家だそうです。

その代官所がその重厚な造りと歴史的価値の高さから昭和33年に国の重要文化財に指定されているそうです。

入り口で券を買って中に入ろうとするすると、ボランティアガイドの方が声を掛けてくださり、上手な解説付で案内をしてくださいました。

つるべ式ではない井戸の説明をしてもらっているところ

並んだ米蔵です。比較的新しく作られたものです。

南米蔵は明治25年建築。北米蔵は大正8年建築でどちらも内部を転じスペースとして公開している。

特に代々江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)を名乗るそうですが、特に幕末の江川坦庵がすごい人で、洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に実績を挙げる、パンの祖でも有名だそうです。

パン祖の碑の前で。パンといっても乾パンで、実物がおいてありましたが、大変重く、これを水でふやかして食べたそうです。

小屋裏は、たくさんの桁・ 貫で組まれ、くぎやねじ類を一切使ってない耐震構造で、建築家の方の見学も多いそうです。

日蓮上人直筆のものが棟札にあがっていて、それ以来日蓮上人に帰依し日蓮宗であり、火災予防の護符がずっと効力を発揮し、火事にも遭っていない。

江川家がこの地に移り住んだ時に、映えていた欅をそのまま柱として利用したものと考えられ、大事にされている柱で「生き柱」と呼ばれています。
家の造りもこの木に添って建てられているので曲がっています。こんなのいいですね。(^u^)

とても広い敷地の中にたくさんの建物が建てられており、母屋の大きく広い。現在は当主は東京にお住まいなのでここには住まれていないが、行事の時帰って来られるそうです。

ボランティアガイドの方の説明がとてもわかりやすく、しっかりと説明をしていただいたことで、何も知らなかった、この江川邸が頭にしっかり入ってきました。

https://www.egawatei.com/

そのあと江川坦庵の大きな業績のひとつとして、また旧韮山町のシンボルとして今日まで親しまれてきたのが、反射炉を訪れました。

 それと江川英龍(坦庵)とお台場の話をボランティアガイドさんより伺いました。

ペリーが4艘の黒船を率いて来航し武力を背景に開国を要求したとき、その防衛策として東京湾に12の人工島を築き、たくさんの大砲を備え付けました。

これが「台場」です。その設計から完成までの総指揮に当たったのが韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)でした。

それらの台場は将軍の命令で造られたので、敬意を表すため「お台場」と呼ばれていて、その呼び方が現代にも地名として残っているのです。

完成した台場には、韮山反射炉で造られた、鉄製の大砲が備え付けられました。

昭和30年代以降、東京湾の埋め立てと開発が進む中それぞれの台場は姿を消していったが、現在、第三台場と第六台場の二つだけが史跡として残されています。

東国の運慶仏

2010年12月23日|カテゴリー「スタッフブログ

新幹線の三島で伊豆箱根鉄道駿豆線(しゅんずせん)に乗り換えて韮山駅で降ります。終点が修善寺駅です。修善寺といえば、鎌倉幕府2代将軍源頼家が幽閉され悲況の死を遂げたことでも知られているので、これを終点まで乗れば、その現場に立ち会うことができるんだと、歴史ある地名に想いを馳せながら、韮山駅でおりて、大きな道を歩きながら15分ほどで、願成就院に到着しました。

昔は全盛期には巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ、壮大な伽藍を誇る伊豆屈指の大寺院として栄華を誇ったそうですが、今は本堂と大御堂が建っている素朴なお寺になっておりました。大御堂には誰もいなくて、となりの本堂にも誰もいなくて心細くなりながら、その隣の住居をピンポンしたら年配の婦人が出てこられ、ようやく大御堂に入れることができました。

この写真は本堂です。

でも、案内してくださった住職婦人の方がとても感じが良くて、説明もしてくださるし、どうぞ間近でご覧下さいと、心ゆくまで拝観させていただきました。

真ん中には、重文の胸の前に両手を掲げる説法印の阿弥陀如来坐像は、堂々としたはちれんばかりの体格です。顔と手などが破損していて残念ですが、この大きな体で、度重なる兵火の中寺僧らの尽力で今日まで現存していること自体が奇跡です。

眷属として向かって右側に毘沙門天立像、左側に不動明王二童子像が立っています。こちらは、とてもきれいな状態で立っておられます。

「吾妻鏡」では北条時政が、源頼朝の奥州平泉征伐の戦勝祈願のため建立されたとされているが、実際はその3年前から造り始めたことが判っており、北条氏の氏寺として寺が建立され、運慶が招かれて造ったものだというのが定説になっているようです。

あとで、後側のお堂にも案内してくださり、胎内に納められていた運慶の名のある塔婆形名札の現物を見ることができ、北条政子の七回忌に作られたという地蔵菩薩像も見せてもらうことができ、感激でした。

(ほんものの塔婆まで見ることが出来るとは思っていなかったので、感激でした(^u^))

住職婦人が、北条早雲による動乱で堀内公方の茶々丸がこの願成就院にいたことよりお寺はほぼ全焼したこと、再建されたものの豊臣秀吉の小田原攻めで、再び全焼し、数々の苦難で、多くの寺宝は灰燼に帰したこと。そして、江戸時代に北条氏貞が再建し

今は小さな境内であるが、付近全部が史跡になっていることなど、説明してくださいました。

1月26日から3月6日まで「金沢文庫」で運慶展が開催されます。

願成就院のあと浄楽寺にも行きたかったのですが、電話で拝観のお願いをしたところ、事情があって、今年は、もう拝観はしていないと言われました。

運慶展開催を後で知り、この準備のために拝観ができなかったんだとわかりました。

ちなみに、願成就院さんでは、運経展に出品はされないとのこと。住職が断ったとお伺いしました。

https://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/bunko/tenjiyokoku.htm

本当に運慶の素晴らしさの再確認と、住職婦人のお人柄で、温かい気持ちになり、お寺をあとにしました。

行けて良かった(^.^)/~~~

発掘調査の結果、塔が建っていたが判っています。

運慶仏を安置したお堂を遠景より望む。

願成就院の運慶仏 五体が重要文化財に指定されています。

阿弥陀如来坐像

不動明王、制た迦童子、矜羯羅童子              毘沙門天立像