アントニ・ガウディと出会う。
アントニ・ガウディは1852年に生まれた。両親とも銅細工職人という家系に生まれたことが、空間を把握するという、自らの建築家としての素地になったと考えられる。
バルセロナで建築を学び、1878年に建築士の資格を取得し、パリ万国博覧会に出展するクメーリャ手袋店のためのショーケースをデザインし、この作品を通じて、その後40年余りの間、パトロンとなる繊維会社を経営する富豪グエル氏に才能を認められる。
グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計を依頼した。
そのグエル公園は、町から山を上がって行きます。
当初、広場道路などが作られ60軒の分譲住宅が造られる予定だったが、買い手がつかず売れたのは、グエル氏と恩があってやむを得ず買わされたガウディの友達の2軒だったという。
ガウディ自身もその分譲住宅に住んでいたという。グエル氏の没後工事は中断し市の公園として寄付される。
自然と芸術に囲まれて暮らせる新しい住宅地を造ろうとした、当時からみれば進みすぎた価値観が売れなかった理由の一つだが、現実問題として、乗り物のなかった時代にこの山の手に上がっていく手段は歩く以外にないので、こんな辺鄙なところに家を建てても売れなかったというのが実際のところだろう。
最初訪れたときは、日曜日で、市の公園なので無料ということもあり、ものすごい人人人人人でした。
もう身動きできないぐらいの人で、ドラゴンとだけ記念撮影をするなんてできそうもない情景でした。
延泊をしたので、翌日バスに乗って山を上がって再び訪れましたが、町の中心からはかなり山の手になるので、ガウディの頃に歩いてこの家に帰るのはとても大変だと実感しました。
グエル公園の入り口に立つ門衛の小屋ですが、お菓子の小屋みたいですが、甘すぎた感じはありません。
翌日はあまり人もいなくてじっくりゆっくり楽しむことができ、写真も公園のタイルをひとつひとつ撮る事が出来ました。
日曜日にグエル公園は絶対駄目です。
これもガウディのデザインです。
パイナップルのようです。 地震がないので、石をこんな風に積み上げていても大丈夫です。 道で人が歩く道路とそれ以外と2本に分けられています。 半日でも一日でもいる事ができる素晴らしい空間です。 |
翌日の朝の静かなグエル公園です。
シンボルのドラゴンともツーショットで写真が撮る事ができました。
グエル公園パンフレット
町の中にあるカサ・ミラです。
高級マンションとして建設されたそうですが、依頼主は、カサ・バトリョ邸を見て依頼したが、出来上がってきたのが、「石切り場」あだ名されるぐらいでイメージが依頼主の婦人のものとかなり違っており、裁判になったそうです。
実際に両方を比べてみると、バトリョ邸をイメージしたのであれば、裁判するのが理解できます。
入場料を払うとエレベーターで屋上に行きます。
実際にマンションに人が住んでいるので、一階と屋上とその下あたりが見学できるのですが、バトリョ邸のように日本語の解説がないので、分かりづらいです。(日本語がないなんて不親切)
美しいバトリョ邸です。
ここは日本語の解説イヤホンがあり、じっくりとゆっくり解説してもらって心ゆくまで見せてもらうことができました。
もし出来るものならこの家に住みたいです。
ほんとに細部まで心を砕いてデザインされたガウディ建築がここにあります。
吹き抜けのタイルも下と上では大きさが違っています。
居間の天井
ガウディデザインの椅子
ガウディは、熱心なカトリック教徒だった。1914年以降宗教関連以外の仕事を断り、サグラダ・ファミリアの建設に没頭するようになる。
1918年パトロンのグエル氏がなくなり、サグラダファミリアの建築も資金難から遅々として進まず、この頃の不幸が彼を変えたと言われる。
取材や写真を嫌うようになり、サグラダ・ファミリアに住み込み集中していく。
1926年ミサに向かう途中に路面電車に轢かれる。身なりに気を使わず浮浪者と間違われられ、手当てが遅れてなくなる。
終生独身であった。
ガウディは、「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」と、ガウディは自然の中に最高の形があると信じていた。
サグラダ・ファミリアの生前に描かれた設計図はスペイン内戦で焼失している。
現在焼失を免れた数少ない資料を手がかりに、現在も工事は続けらている。
完成予想図模型
ライトアップされたサグラダ・ファミリア
ガウディ設計の職人たちの小屋。
屋根の曲線が美しい。
ガウディを堪能することができた2日間でした。